犯罪被害者の落ち度を責める人の心理

なぜ被害者に落ち度があると思ってしまうか

わたしは不条理なこともまあまあ経験してきたほうだと思います。
今まで生き残って、こんなブログも書ける程度だから、そこまでひどい目には合っていないけれど、どちらかと言えば要らない経験値を積んでいる気がします。

今は何かあっても、人には話さず自分で解決しているけれど、若いころは迂闊にしゃべってしまったりして、そうすると、一定数わたしに嫌悪感を持つ人が出てくるのですよ。
「あなたに落ち度があった」「自己責任」「前世でよほど悪いことをしたのではないか」とかね、そういうことを言ってくる人っているんだよね。

傷つきはしたけれど、実は意外とわたしは、そういう人たちに寛容です。
そういうことを言われるってことは、その人たちには初めから嫌われていたんだろうなあっていうのもあるし、「本人に落ち度があった」という思考は、本人に責任がないのに酷いことが起こり得るのだと認めたくない、つまり自分が安全圏にいると思いたい、人間の心理だから仕方がないんだよ。

仕方がないけれど、このことを知っているのと知らないのでは、その後の行動は変わるよね。

被害者に落ち度があると思ってしまう心理を知れば、その後の行動は変えられる

心の中では本人の落ち度だ、と思ってしまったとしても、相手を責めたいのは、自分のためなんだ、とわかっていればそれを口に出すことはないとわかります。
本人の落ち度を問う人がいても、人間の心理ってそういうものだと知っていれば、そこに必要以上に怒ったり悲しんだりする必要もありません。

被害者の落ち度だと思ってしまうのは、人間の心理として仕方がないことだけど、それをそのまま口に出せば相手は傷つきますよ、だから相手を傷つけても自分が良い気持ちになりたいか、余計なことを言わずに飲み込むか、考えた上で行動してほしいです、というのが、この記事の主旨です。

落ち度を問う人をバッシングするのには反対

被害者に寄り添えることは立派だけれど、本人の落ち度だと言う人をたしなめる程度を通り越して、バッシングする人は、正直わたしは苦手です。
例えそれが、わたしをかばってくれての行動であってもね。
はっきり言って、自分のことだけで精いっぱいのときに、場外乱闘を始められると余計に色んな弾をくらう。

こう言っては何だけれど、ベクトルは違ってもやっていることは同じだと思うんですよ。
わたしと同じことを考えない異物を矯正して自分の安全圏を守りたい、ってことじゃないですか。
それに、人を叩くのって気分が良いもんね。

被害者に寄り添うことと、被害者に寄り添わない人間をバッシングすることは、イコールじゃないよ、というのが、この記事のもうひとつの主旨。

でも、バッシングしている人たち楽しそうね

でもさ、よく知りもしないことを、けしからーん!ってバッシングしている人たち、楽しそうよね。
ドーパミンが出るわけだから、実際に楽しいんだろうけど、犯罪は犯罪であって、他人を楽しませるためのエンターテイメントじゃないよ。